美学 17世紀の絵画論(3)オランダ 授業用

読んで頂くテクストはこちらです。

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アンゲルはレンブラントの故郷でもあったレイデンで活動した画家で、このテクストは、もともとは聖ルカの祝日に、画家たちの集会で行われた講演の原稿でした。レイデンには当時まだ画家だけの組合がなく、この講演は、市当局に画家組合の設立を認めてもらうためのプロモーションでもあったのです。そのため、講演は絵画芸術の尊さや難しさを強調して再確認するものになっており、優れた画家であるためには、如何に多くの学識や技能を身につけていなくてはならないかという主張も行われています。

テクストのなかには、同時代の絵画への直接的な言及も出てきます。幾つか挙げておきましょう。

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レンブラントサムソンとデリラの婚宴》1638年

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リーフェンス《アブラハムの犠牲》

ピレモンとバウキスを描いた「ラテン語にも通じた画家」としてアンゲルが誰を念頭に置いていたのかは断定できませんが、学識者として当時から名高かったルーベンスかもしれません。彼には、次のような作品があります。

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ルーベンス《ピレモンとバウキス》1630年

アンゲルの講演との前後関係は分かりませんが、以下の作品などには、ピレモンとバウキスの家の貧しさが良く表されているかもしれません。

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ダーフィット・レイカールト《ピレモンとバウキス》

回転する車輪の表現について論じたくだりは、アンゲルの講演でもよく知られた部分です。レンブラントとニコラース・マースの作品をあげておきますので見比べてみて下さい。全力で自分をさらうハデスに抵抗するプロセルピナの身振りは迫真的ですが(また彼女を救おうとする友達たちの努力にも目が行きますが)確かに馬の疾走ぶりに比べて、車輪は止まって見えるかも? 一方で、マースの糸紡ぎ車は確かに動きの表現を意図しているようです。

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レンブラント《プロセルピナの略奪》1631年

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ニコラース・マース《糸を紡ぐ女性》1650年代

マースはアンゲルの講演を知っていたのでしょうか。あるいはその内容を人づてに聞くか何かしたのでしょうか。興味深いことに、アンゲルの講演を知っていたとは思えないスペインのベラスケスも、同じ頃に同様の回る車輪の表現を取り入れています。

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ベラスケス《織女たち(アラクネの寓話)》1657年

 

美学 17世紀の絵画論(フランス・アカデミー)授業用

 授業で読んでもらうテクストのリンクはこちらです。

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小佐野重利 解題・監修「[原典資料紹介]シャルル・ル・ブラン『感情表現に関する講演』」、『西洋美術研究』第2号(1999年)、146-161頁。

『西洋美術研究』の第2号はアカデミー特集で、フランス・アカデミーの設立過程についても詳しい解説が掲載されています。尾道市立大学の図書館にもありますので、是非チェックしてみて下さい。

美学 17世紀の絵画論(1)イタリア 授業用

前回の「宗教改革・対抗宗教改革と美術理論」のフィードバックがまだですが、次の17世紀の絵画論(1)イタリア用のリンクを置いておきます。

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この論文の書誌情報は以下の通りです。

清瀬みさを「「黙せる詩」Muta poesisをめぐって--ベッローリの美術家列伝における絵画の理想」『人文学』第174号(2003年)1-21頁

CiNiiで検索すると、他にもベッローリによるフェデリコ・バロッチの伝記などがオンラインで読めますので、是非一度アクセスして、雰囲気を味わってみて下さい。

バロッチは美術史の通史で紹介されることは少ないですが、甘美な画風の画家で、優品も残しています。

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バロッチ《猫の聖母》ロンドン、ナショナル・ギャラリー

 

西洋美術史1 北方ルネサンス1(イタリア・ルネサンスとの比較)

北方ルネサンス1,2では、それぞれ主に初期ネーデルラント絵画とドイツ・ルネサンスを扱います。

ネーデルラントとは、だいたい今のベルギーとオランダに相当する地域です。16世紀後半まで、このネーデルラントという地域は文化的な一体感を持ち、また政治的にもブルゴーニュ公国を中心として緩やかに統一体を保ってきました。

「初期ネーデルラント美術」は、おおよそ15世紀から16世紀の初頭にかけてネーデルラントで展開した美術です。とくに絵画が重要で、なかでもヤン・ファン・エイクは透明油彩技法を完成させた画家と見なされてきました。このときの油彩技法は、板に白い下地を施し、下絵を描き、暗部(陰影の部分)を暗色で描いてから、透明度の高いグレーズ層を何層にもわたって塗り重ねていく(その都度乾かす必要がある)という、丹念で時間のかかる技法でした。その代わり、色彩に深みと同時に透明感があり、質感描写に優れた能力を発揮したのです。

イタリア、ルネサンスとの違いを、幾つかの点に分けて確認しておきましょう。

①線遠近法について

 イタリア:厳密な線遠近法を計算に基づいて適用。理論化も進んでいる。

 ネーデルラント:経験的。ヤン・ファン・エイクは遠近法も高いレベルで処理していますが、一般的にはおおよその感覚で描いていることが多く、あからさまにパースが狂っている場合もある。

②人体表現について

 イタリア:プロポーション(比率)などを重視し、正しい人体表現を目指す。

 ネーデルラント:華奢な人体を描くことが多く、身体部位の比率も必ずしも現実に即していない。

 

 イタリアの初期ルネサンスにおける重要ポイントだった線遠近法と人体表現に、この時点での北方の画家は関心がやや低いことが窺えますね。

 一方で共通点はというと・・・

③(それ以前の絵画と比べると)空間の奥行き感、事物の立体感が強い

 これはイタリア、ネーデルラントともに、15世紀の絵画の大きな特徴です。そしてこの立体感・空間感は、現実味(リアリティ)をもたらすものとして重視されていました。

では北方の方が優れた点というのはないのでしょうか。

④事物の表面の質感表現について

イタリア:あまり強い関心がなく、質感の描き分けは最低限。

ネーデルラント:迫真的な質感描写が追求される。ガラス、金属、水などの反射や光沢、複雑な光のきらめき、毛皮や木材の手触り感、空間の片隅の暗がりなど、描写の質には徹底的にこだわる。

⑤風景表現について

イタリア:樹木をデザイン的に図式化したり、山を色面化したりと構成的な感覚が強い(単純化に陥ることも)

ネーデルラント:自然のなかに存在する個別性や偶然性をすくい取って、現実感があり具体性の高い風景表現を展開

風景の違いについては、以下の図版でも見比べてみて下さい。

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美学 マニエリスム期の美術理論 フィードバック

読んでいただいた論文「蜜蜂としての模倣 ーマニエリスム時代の模倣概念」、如何でしたか。結構難解な文章ですので、分からなかった部分が多くてもあまり気にしないで下さい。ただ修辞学や文芸理論に関わる部分は、日本文学科の方にとっては有益なのではないかと思います。じっくり読んで、理解を深めてみて下さい。

リンク貼り忘れていてすみません。こちらです。

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 改めてポイントとして見ておきたい点はいくつかあります。

①複数の花から蜜を吸う蜜蜂のように、「蜜蜂としての模倣」は、単独の手本ではなく、複数の手本から美点を学んでくるということを想定していること

②「猿」(ただ猿まねするだけ)としての隷属的な模倣とは異なり、複数の手本から得たものを甘美な蜂蜜にする、即ち、模倣を通じてより優れたものを生み出すという模倣のポジティヴな側面が強調されていること

③こうした特徴が、美術の様式(=やり方・マニエラ)に適用され、当時の美術論に反映されている点

 ゴシック末期から初期ルネサンス・盛期ルネサンスを経たマニエリスムの時代になると、様式(=やり方・マニエラ)(例えば同じ天使なら天使を描くとして、その描き表し方)のバリエーションがかなり豊富に蓄積されていました。様式・マニエラの違いということに作家や鑑賞者の意識が向くようになり、自然のモチーフの学習よりも、既存の描き方・マニエラの習得やそこを出発点にしたアレンジが加速していきます。

 このあたりは、今の漫画やアニメと似ているかも知れません。作品タイプにもよりますが、多くの場合、新しい作り手は自分が見た「作品」のやり方・作風から出発していて、現実そのものに立ち返ってはいませんよね。このように、ある意味で充実した蓄積の上に立ち現れてくるのがマニエリスムです。余談ですが同じひとりの作家のなかでも、何となく「古典的完成期」と「過剰なマニエリスム期」が見て取れたりするので、長期連載してる漫画家の作風変遷などを、古拙(アルカイック)期(その作家の絵が確立するまで)、円熟(クラシック)期(一番作画が安定している時期)、過剰化(マニエリスム)期(自分の特徴が誇張されて過剰になる時期)といった観点から見てみるのも面白いかも知れません。

 マニエリスム期の美術理論家として重要な人物には、フェデリコ・ズッカロ(ツッカロ)(『画家、彫刻家、建築家のイデア』の著者)や、ジョヴァンニ・バッティスタ・アルメニーニ(『絵画の真の教え(Dei Veri Precetti della Pittura)』1586年の著者)、ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ(1538年生まれ、1571年に失明した画家で、失明後は美術理論に専念。著書『絵画の神殿のイデア(Idea del Tempio della Pittura)』1590年)などがいます。

 イデア(=理想像、観念)といった単語が著作のタイトルに頻出する点にも要注意です。マニエリスム期の作家たちは、このイデア(理想像)を内なるディゼーニョ(Disegno interno)と見なして、現実のモチーフにではなく、自らの精神や心の内面に理想像を求め、それを実現するための補助を、複数の手本からの「蜜」に求めていたのです。

*あとで17世紀オランダの絵画論とイタリアの理論を見てもらって戻ってくると、マニエリスム期の美術理論、もう少し分かりやすくなるかも知れません。

 

美学 芸術における様々な競合のフィードバック(補足説明)

ヴァルキのテクスト、読んでみてどうでしたか?

どちらが優れているかなんて、あまりにも素朴な(あるいは幼稚な)考えのようにも思われたでしょうか。そんな議論よりも制作に打ち込もうというミケランジェロの上手なスルー返事に、同意する人も多いでしょう。

こうした優劣論の背景には、絵画と彫刻のどちらが「祭壇装飾」の役割を担うかという現実的な実際の競合(仕事の取り合い)もありましたし、また、社会における「芸術の地位」ということも関係していました。「美学」の授業の最初の方でお話があったかもしれませんが、西洋では中世以来の伝統として「自由七学芸(Seven Liberal Arts)」(=文法、修辞学、論理学、幾何学、数学、音楽、天文学)というものが定められていました。医学や法学が入っていませんが、自由学芸は、実際的な目的や職業訓練から「自由」な、基本的な学芸と位置づけられていたのです。そして、文法と修辞がこのなか入っていることから、「詩」は自由学芸のなかに含めて考えられていました。では「美術」はどうでしょう。物語を絵画化したり、美しい形を創造したり、といったことから考えると、美術は人間にとって根源的で、しかも何か「他のもの」「実用」の役に立たねばならないという縛りから解放された、自由学芸的なものとも言えます。が、一方で、職人的な「手仕事」とも密接に結びついています。こうした中間的な位置づけにあった美術の地位を、美術家たちは、より自由学芸に近づけて(つまり社会的地位を高めて)いこうとしました。「詩」や「音楽」と美術の間のパラゴーネが盛んに取り上げられた理由のひとつには、こうした事情もあったと思われます。

こうしたことは、はるか昔の些細な(あるいは自分たちとは関係のない)問題、と思われるかも知れませんが、今、美術が(理容・美容や調理などがもっぱら専門学校に限られるのに対して)「大学」の学部・学科として組み込まれているのは、長い目で見ると、このときの芸術家たちの努力の結果でもあるのです。

ヴァルキが行っているのは、美術のなかでの「彫刻」と「絵画」のパラゴーネですが、これはこれで、それぞれの媒体の特性を自覚的に意識し言語化するという、重要な働きを持っていました。ミクストメディアがここまで当たり前になり、既存のジャンルに縛られない現代アートが広まっても、例えば大学の学科や専攻・コースなどは、今でもこうした伝統的な技法材料別(メディウム・スペシフィック)に設定されていたりします。私たちは与えられた選択肢(例えば、版画というジャンルがある、など)を自明のものと思ってしまいがちですが、パラゴーネ論争に照らして、それぞれの領域に固有の特性は果たして如何なるものなのか、それは当然のように引き継がれていくべきものなのかなど、現代の美術の状況について改めて考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

尾道市立大学の図書館にも所蔵がある『西洋美術研究』第7号が「美術とパラゴーネ」の特集号となっていますので、興味がある人はさらに見てみて下さい。ヴァルキのテクストもそこから取ったものです。